2014年12月6日土曜日

線から面へ【ぐるりのこと3】

境界線が最初に生じるのは、どこからだろう?
と考えたときに、一番小さなコミュニティってのは、たぶん男女関係
アダムとイブ

本来的には、たぶんもっと、自然にふれあえた方が良いのだと思うんですが
実際問題
肌と肌との、ふれあいが、足りとらんですよなぁ
それは、物理的にも
意味合いでいうと、世の中的にも


彼氏がいる、彼女がいる
夫が居る、妻が居る
そういう状況でありながらも、ふれあいを欲している人が多いッスよなぁ
『昼顔』なんていうドラマがしばらく話題になってましたけれども、
内容を正しく知らんのですが、まぁ、健全な関係性が築けなくって、
それで、倫理の枠を飛び越えちゃうわけですよな

特定の相手がいたとしても、ふれあいが足りなければ、
社会が決めてきたルールの境界線を飛び出しちゃう

独り身は、常に飢えている状態だと思います
渇きにも似た
旱魃の大地って感じですかねぇ
恵みの雨が降るのを待っているような
まぁこれは人によりけりだとは思いますけれどもね
ひとりの自由さってのもありますでね





独り身という単独の状態から
彼氏/彼女がいるという状態への移行は
境界線の拡大が起きる感じですよな
ひとりだけの輪っかが広がって、相手を入れられるようになっていくというか

その、自分だけではない境界が、やがて結婚というタイミングで
二重の輪になる
自分と相手という、個別の存在の輪の重なりだったのが
『夫婦/家庭』という輪が作られる

という解釈でもって
この2つを図にしてみますな
わかりにくいかもしれんので



家庭になったら、ってのを先に考えますってェと
よく言われるのが『男女の関係ではなく【家族】になってしまう』
ということですよな
スキンシップが減っていって、レスに陥ってしまう、と
で、場合によっては、崩壊に至ってしまったりもして

これはつまり、外側の境界である【家族】部分の方が強力すぎるがゆえに
最初にできた、個と個の輪っかによる結びつきが弱くなっていく
ってェことなのだろうな、と

つまり、外側が強固な分だけ、内側は自由に動けるようになっていく
だから分離しちゃうというか
まぁ『母親』『父親』という役割を担うようになっていく
っちゅーのも大きく影響すると思うんですけれどもね


こんな状態に変化してしまうってェのは、
境界線の捉え方が『1+1=2』
って感覚が、世間一般的な認識として、とても大きいからなんじゃなかろうか?
と思ったのですよ

彼氏、彼女という間柄にしてみても
『1+1=2』という認識であって
別れてしまったりすると、1に戻ってしまう
そんな感覚が、最大のネックになっとるように思ったわけなのです



んで僕は今回のブログで何が言いたいのかっつーと
『【個】の境界線は広げていくものでは無いんじゃないか』
ってことなんスね



【個としての境界線】を広げていっちゃうと、個を守れなくなるんじゃねぇか、と
境界線はゴムみたいなもので
広げれば広げるほど、細く、弱くなっていくんじゃないのかなぁ、と
外部からの接触で、容易くダメージを受けてしまうような

ほいで、
最悪のケースでは、境界線が、ちぎれちゃう
いろんなものが、自分の領域に流れ込んできて
大事ななにかが狂ってしまう


だから、肝要なのは『境界線上を広くする』ってことなんじゃねぇか、と

その広げた境界線の上で、外側に触れたり、触れなかったり
相手を受け入れられる範囲を広げたことで、
自由自在に絶妙な距離感を保つことが、大事なんじゃねェか、と

『境目/境界線』という概念の捉え方を変える
ってことなんじゃねェか?と

伝わりますかね、これ
すげぇ観念的というか、抽象的というか
わかりにくいかもしれんですよなぁ

↓ こうです


みんな、みんな、細い線になっちゃってんじゃねぇのかな、と
広げようと、中に入ろうと、入ってもらおうとして

そうじゃなくて、太〜〜〜〜〜〜〜い線にする
太いから、線というよりも面になる
みたいな

結局のところ『1+1=2』の感覚が強い世の中において
『2』というものを作ってしまうと
『2じゃなくなったと感じたとき』の喪失感がドデカいんスよね
とてもとても、足りなくなってしまう
ふれあいを渇望してしまう

『1+1=2』じゃなくて
『1:1=∞』
というような図式に変われれば、
彼氏、彼女、夫、妻ができたときに
気持ちが楽になるんじゃなかろうか、と

これは男女の仲に限らず
広く応用が利くだろうことだなぁ、と思ったんス
あらゆる場面で有効に思えるんですわ
友人知人
会社の中
取引先
初めて会った人
などなどなど

境界線の定義が狭いと、身動きが取りにくくなってしまうから
境界『線』ではなく
境界『面』にしていく意識の在り方

『1』という自分の境界線の中でギリギリのコミュニケーションをするのではなく、
他者である別の『1』と、
時に重なったりしながらコミュニケーションを取れる『境界の在り方』というか



これが出来たら
ふれあいが欲しくなるような激しい喉の渇きにも似た、孤独なさみしさっつーのは
だいぶ軽減されるんじゃないのかなぁ、と

なぜなら、
境界線が、境界面になったことによって
かなり自然にふれあうことができるようになるんじゃないか、と思えるから
とてもとても個人的な感覚なんで、アレですけどもね



『ぐるりのこと』『境界線』
考えれば考えるほど
あれも、これも、境界線だ、と思えてきて
果てしなく、言葉が出てきてしまうのでありました

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